WORLD -5-
3.
テストが終わった。午前中で終了した学校、昇降口から出たところだった。
「――先輩っ!」
明るい音が聞こえた。それが自分に向けられていることが分かった。眩しいくらいの笑顔がこちらに向かってくる。
「ああ…。」
「ああ…じゃないですよっ!先輩、今日は部活来るんですか?」
「ん…ああ。」
「そうですか!良かったです!」
嬉しそうな顔が隣に並ぶ。
「先輩はテストどうでした?」
「まあまあだったと思う。」
「私、今回は自信あるんですよ?」
彼女は意気揚々に告げる。
口元をなぞる。相変わらず元気な子だ。見ているこちらまで明るくさせる、そんなものを新田千穂は持っている。大抵彼女の話を聞くばかりなのだが、彼女といるとそれが苦ではない。むしろ楽しいと思っている自分を認識している。それは自分だけでない。彼女の周りの人間全員がそうなのだろう。悪い印象を持っている人間はいないように見える。俺といるべきなのかと考えることもあったが、考えたところでどうしようもない事だった。
「せんぱーい?聞いてます?」
「ああ…ごめん。」
「また考え事してましたでしょ?」
少し顔が膨れる。不覚にもその顔が愛おしく思えてしまった。
「…ああ……ごめん。」
彼女はくすくすと笑った。全く、彼女といると調子が狂う。
他愛も無く彼女の話を聞いていると、正面から生徒が走ってきた。弓道部だろうか。袴を穿いている為少し目立つ。彼の目が彼女を捉えた。刹那、心をも彼女に奪われるのが解った。が、俺を認識すると彼の心は淀む。そのまま過ぎ去る。一瞬の恋。そんなものを見た気がした。別に彼女とはそういった関係ではないのだが。
「1週間ぶりですからね。体が忘れてないといいんですけど。」
それに気付かない彼女は話を続ける。
「感覚を戻すのに多少時間はかかるだろうが…大丈夫だろう。」
煉が神や世界の理の他に興味を示す物の中の一つが音楽だった。きっかけは単純に高校入学の際、吹奏楽部の部活勧誘に巻き込まれたというだけなのだが。1度楽器を吹いた瞬間その魅力に魅せられ今に至る。
「先輩は上手いからそういうんですよ。」
「どうだろうな。」
確かに、魅せられた瞬間から練習は惜しまなかった。土日練習の際は大抵一番早くに来て一番最後まで残っていた。昼食を摂る時間さえ無駄だと思い削っていた。しかしそれらが全く苦では無く、むしろ愉しんでいた。それくらい熱中していた。周りから見た自分は恐らく異常だったと思う。
「知ってました?先輩がサックス吹くと静かになるんですよ?」
何故か怒ったような顔で言われた。
確かに吹き始めに周りの音量が下がることや視線を感じることが幾度もあった。正直、監視されているようで余り良い気分ではない。
「何故だろうな。」
自分の持つ雰囲気がそのまま音に表れているのだろうかと思う。それなら納得できなくもないと思うのだが。しかし結局、それは推測でしかなかった。
「…なんていうか、聞かなきゃいけないような気がするんですよね。」
「どういうことだ?」
それには少し興味があった。
「んー……言葉で言えない何かこう。訴えかけてくるような何かがあるんですよ…多分。」
曖昧な答えではあったが、彼女のいう事が何となく理解できた。
俺はその何かを表現することが好きだから音楽をやっているのだと思う。
「そうか、ありがとう。」
「へ・・・?あ、はい。」
一瞬きょとんとした顔になるが、それだけだった。
「みんな来ないですね…。」
練習場にて、楽器の準備をしている時だった。
「テスト後だからな。いつものことだろう。」
何人かの生徒は同じように楽器の準備をしているのだが、その数は半分にも満たなかった。
この学校の吹奏楽部の練習場は体育館の横、元卓球部の練習場を使っている。こんな処が練習場な理由は、ここ10年以上、大会、コンクールなどで十分な結果を上げられていない。また、生徒の部活出席率、離籍率その他諸々。音楽室は毎年県大会出場は勿論、地方、全国大会が当たり前の合唱部が使用している。卓球部が廃部したのをきっかけに当時の顧問が占拠したらしい。
「もー。こんなんだから…。」
文句を言いつつも新田は自分の担当する楽器であるコントラバスを取り出し、音を奏でる。体の倍以上あるだろうかという楽器を慣れたように扱う。普通彼女のような小柄な生徒は小さめの楽器を扱うことになるのだが、彼女は入部してコントラバスを見た途端、これが良い。と、顧問と当時の三年生へ懇願して勝ち取ったのである。万年地区大会の結果が下から数えたほうが早いこの学校だからこそ、可能だったことかもしれない。
でもそんな与太話はどうでも良かった。俺はただ楽器に触れて、奏でられて、上達できるのなら何だってよかった。この部のいきさつなんて、他人の事情なんて関係ない。
準備を終えると、深呼吸。キーをカチカチと鳴らした後、数秒の間をおいてから奏でる。冷たいような、しかし確かに何かを持った飾り気のない音が世界を満たす。
サックス。正式名称サキソフォンは、ベルギーという国が起源である。木管楽器でありながら金管楽器との調和が取れるという利点があり、当時の軍楽隊を中心に広まった楽器である。当然欠点もあり、当時から言われてきているのは楽器自体の性質として、ピッチが悪く、音の高低が取りづらい等がある。このピッチが合わないと音を合わせたときに歪んで聞こえてしまう為、昔は嫌煙する他楽器奏者もいたようだ。現在では改善されてきているが、構造上、完璧に修正することは出来ていない。
煉の使っているアルトサックスは日ノ本の企業、AHMAY製である。楽器というのは総じて、その民族の感性に合わせて作られる。起源こそ遠く離れた異国の地ではあるものの、日ノ本で、日ノ本の会社が作る楽器は当然、日ノ本人の好む音質になる。このAHMAYのAHS-875 Customは音に濁りがなく、重厚で透明感のある豊かなサウンドが特徴である。日ノ本ではこういった音質の物が好まれがちであるが、欧州では弦楽器のような音質が多くに好まれる為、そこで作られるサックスなどの吹奏楽器もまた、弦楽器に近づけるためにわざと音の透明感を無くしている事がある。
顧問もテスト明けということで忙しく監督出来ないとなると結局、今日は自主練という形になったようだ。普通の部活では考えられないかも知れないが良く言えば自由、悪く言えば堕落しかけているのがこの部活である。
「狭山先輩。」
肩を叩かれて我に返る。
「ああ…。気付かなかった。」
練習を中断し振り向く。
「ふふっ。相変わらずですね。」
「んん…。」
曖昧な返事をする。
一度楽器を手にすると周りが全く見えなくなるのは自分でもどうしようもない事だった。どうにかしようとも思っていないのだが。
「あの…相談があるんですけど、いいですか?」
気付けば、とっくに日は落ちていた。
「私、このままじゃダメだと思うんです。」
練習場から部室に戻るやいなや、彼女はそう告げる。
「そうだな。」
確かにここ最近、何人かの生徒の部活出席率は著しく低下しているのを俺でさえ感じ取っていた。
「もう半年になるのに…。」
現在は二年の生徒が部活を取りまとめている。三年は梅雨時にはもう引退して今の時期には受験勉強に勤しんでいる頃である。それに当てはまらない生徒は既に進路が決まっている者か、煉のような変わり者だけである。
「一人一人のやる気の問題だからな。」
「そうなんですけど…。」
寂しそうに俯く。
「ミーティングでも開いたらどうだ?」
「それは…前に一度開いたんです。それで決まったことを実践してみたんですけど…。」
「前に練習メニューが大きく変わったのはそういう事か。」
「でもあんまり変わらなかったですね…。」
はあ、と大きくため息を吐く。
「練習メニューの変更も悪いとは言わないが。まず何が原因で部活に来ないかを考えなければいけないのではないか?」
「あ…はい。でも実際に聞くというのもなんか…。聞きづらいです。」
「出席率が悪くなる前に何か言ってなかったか?」
「えーと。んー…。」
心当たりがないようだ。少なくとも部内の多くとは交友を深めている彼女が知らないのであれば、原因を特定できる可能性は薄いかもしれない。
「…部活内に問題があるとすれば大抵誰かに愚痴を零していたりするものだが。例えば部活外の生徒にも。」
「あっ、確かに。それはあるかもしれません。」
一つ、何か希望のようなものが見いだせたようだ。先程よりは幾分表情が明るくなった。
「今度ちょっと聞いてみたいと思います。」
「ああ、それがいいと思う。じゃあ、お疲れ。」
鞄を持ち上げる。
「え!?あっ、待ってください。その、途中まで一緒に良いですか!」
「先輩…何で大学に行かないんですか?」
家路の途中、新田は尋ねた。前に一度、進学しないというような話をどこかで告げた覚えがある。その時の疑念がまだあったのだろう。
「…なんでだろうな。」
夜道は暗く表情は見えなかったが、瞬間、彼女の心に靄がかかったのを知覚する。
「先輩、先生にも音大薦められてましたよね?講師の先生にだって、回りくどい言い方でしたけどそんな感じの事言われてたじゃないですか。」
先程よりも語気が強い。
「なんで……。」
そう言って俯いた。
気付けば、俺は笑みを浮かべていた。
「他に…やりたい事があるんですか?」
「そんなところだ。」
「先輩が音楽よりも好きな事って何なんですか?」
その眼はまっすぐに俺を見ている事を認識する。
「……秘密だ。」
「…………………。」
「…………………。」
「私、こっちですから。……さようなら。」
交差点を左へ。震える声を残し、彼女は家路についた。
少女と歩く家路。
天使は何故、ラッパを吹くのだろう。
そんな疑問が過り、そして消えた。