WORLD -7-
悪魔というのは聖書を目にする、またはその内容を読んで聞かせるともがき苦しむという。
欧米にいるエクソシストという悪魔祓いの専門家たちは、人に取りついた悪魔を払うため、まず聖書を読んで聞かせて弱らせるらしい。
悪魔は何故、聖書を嫌うのか――。
聖書には世の真理が書いてあるからだ。そういう見解もあるらしい。実際にどうなのかは解らない。今では多くが改変され、その内容は原初とは程遠いものになっている。
――ただ、仮にそれが本当だとすれば、悪魔は何を恐れるのだろう。一体、何が彼らを苦しめるのだろうか。
自宅に戻ると、相変わらずの物静かな空気が出迎える。涼しくなってきているとはいえ、三十分近く自転車を漕いでいれば汗は掻く。とりあえず汗を流しに風呂場へ向かう。
その後は特に何もすることが無かった。ただ考え耽る。
少女は未だ、何も言わない。ただ隣にいるだけだった。ベッドに寝転がれば彼女もまたそうする。
再び、彼女を撫でる。近くにいるはずの存在が遠く思える。無垢な瞳に向き合う。
「何故だ。」
疑問だった。やはり彼女は答えない。何故お前はそこで見ている。何故お前は俺といる。何故俺は――。
何かが変わったのだ。しかし何が変わったのか、いつ変わったのかさえ分からない。
唯、変わったのだ。いつの間にか変わっていた。それだけは確かなのだ。
強い感情が体中に渦巻く。
今俺はどんな顔をしているだろう。こいつには俺はどんなふうに映っているのだろうか。そんな疑問と感情は、知覚した瞬間無益となる。
「ククッ…」
狂気的な笑みが零れる。
ああ、幸せだ。本当に幸せだと思う。
「……クックック」
息が荒い。しばらく自分を抑えられそうになかった。
まだだ、まだ駄目だ。
それでもそんな風に思っている自分がいる。
彼女は何も変わらない。ただずっと、俺を見ていた。
「バンザーイ、バンザーイ」
テレビの中では選挙を勝ち抜いた議員一向が同胞と、そしてなにより自らの勝利を喜ぶ姿があった。
「政権交代からはや一年、見事再び与党に返り咲いた要因は何だとお思いですか?」
記者の質問に一人の議員が受け答える。見覚えのある顔だった。
「様々な理由があると思いますが…」
これでとりあえずこの家も安泰だと思う。仮に落選したとしても叔父さんなら何とかするのだろうが、それでも多少安堵している自分がいる。
今日もいつもと大差ない日常を送っている。
選挙が終わったら言う事があった。ふと思い出す。終わって二、三日はまだ忙しそうにしているのを思い出してまた今度でいいかと思い直す。
テレビを切ると、あたりは静寂だった。
「頂きます。」
食事に向き合う。
いつもと同じく自分の部屋に籠る。
毎日、繰り返し同じような日々を送っていることに疑問を感じた。
何の意味があるのだろうか――。
それを考えても意味がない事は知っていた。それでも、考えずにはいられない。
「叔父さん、今時間ありますか?」
幾日かの後、叔父さんに尋ねる。
ソファに座って新聞を眺める叔父は声だけで反応する。
「ああ、問題ないよ。」
「叔父さんと同じ職場で働きたいと思っています。」
一瞬、表情が固まったのを知覚する。穏やかな雰囲気から一転、緊張が走った。
「煉君、本気なのか?」
叔父さんが俺を見る。それでも声は変わらない。
「ええ。」
「大変だよ。本当に。」
「ある程度は、理解しているつもりです。」
「そうか。…そうだね。」
若干の沈黙が生まれる。
「明日にでも挨拶しに行こうか。」
何気なく、そんなことを言う。
「ええ。分かりました。」
「…ふふ。いつから決めていたんだ?前に部屋で話した時にはもう決めていただろう?」
「だいぶ前からです。」
「そっか。」
一言、そう呟いた。どこか満足気な表情を浮かべているようにも見えた。
「断られたらどうするつもりだったんだい?」
「いえ。叔父さんは断りません。」
「……君は本当に面白いね。」
微笑する。いつもとは違う叔父がそこにいた。
翌日の夕方、叔父さんの職場に向かう。
古びたビルの二階、そこが叔父さんの職場だった。
田所健二秘書事務室――。
「失礼します。」
ノックとともに声をかける。
返事がない。
いないのかとも思ったが、扉越しに明かりが見える。いるはずなのだが。
再度、ノックをする。
「失礼しま――」
「おう。聞こえてるよ。」
出てきたのは30代半ばあたりの、やけに体格のある男性だった。
「…失礼します。叔父の狭山豪の紹介で来たのですが、田所健二秘書事務室はここでよろしいでしょうか。」
「ん?書いてあるじゃん?ほら、ここ。」
扉のネームを指さす。
「…愚問でした。」
その答えに少しの笑みを浮かべた後、俺を眺める。
「豪さんとこの?そっかそっか。いや驚いたね。」
「…叔父の方から今日この時間に伺うよう言われていたのですが。ご存じでなかったでしょうか?」
「ん?聞いているよ?」
掴めない人。それが彼の第一印象だった。議員秘書と言ったらもっと真面目そうな人達がやっているのかと思っていたのだが、そうでもないのかもしれない。
「んま、とりはえず入って。」
気楽な声とともに中に通される。
事務所内はお世辞にも綺麗だとは言えなかった。何の書類か分からないがデスクの上に山積みされているのが散見される。
中には叔父さんの姿は見えなかった。事務の女性らしき人が二人と40代くらいの真面目そうなおじさん二人、それだけだった。俗にいう有名議員の割に人数は少ないのではないかと推測する。
「んじゃ、そこ座って。」
やけに立派な椅子に腰かける。
「いやこっちとしては選挙前に来てくれた方が助かったんだけどね?」
座るや否や、唐突に話始める。
「申し訳ありません。余りに忙しそうだったので落ち着いた頃のほうが良いと考えました。」
「ま、そういう考え方もあるよね。」
感情が読めなかった。
「なんで秘書なんかやろうと思ったの?」
「…やりたいことがあるからです。」
「あっはっは。隠し事しちゃダメよ?そういうの、こういう仕事だとあんまり印象良く映らないからね~。」
「そうですか。申し訳ありません。」
その返答ににやりと笑う。
「あ、それとも。将来は国会議員になりたいとか?」
「いえ、そういうわけではありません。」
「ん~、そっか。残念。」
多少本気で行っているように思えるような口ぶりだった気がする。相変わらず、真意は分からない。
「あそうだ。名前。俺、中島総っていうんだ。よろしく。豪さんと同じ、政策担当秘書やらせてもらってます。」
慣れた笑顔とともに名刺を渡される。
「っとまあ、こんなもんかなぁ。」
そういうと背もたれに体を預ける。
「そうですか。」
「ふっふ。君、絶対政治家の方が向いてる。」
純粋に楽しそうだった。ようやくこの人の一面が垣間見れたと思う。
「中島さんこそ、政治家に向いてそうな気がしますが。」
「だーめだめ。そんな野望は持ち合わせておりません。」
先程よりもっと開けた印象を受けた。
「んじゃ、今日はこれでおしまい。また明日来てよ。」
「分かりました。」
席を立つ。
「じゃ、またね~。」
軽く手を挙げて見送られた。
部屋から退出する。
ふう。と一息。
心配な部分はあるが、どうだろう。いや――。
疑念はまだあったものの、大丈夫だろう。そう思った。
こうして、俺の面接は終了した。