WORLD9~12
「次の予定は?」
「十二時十分から経団連会長との食事会、十二時三十分から厚生省の査察。五時から国際フォーラムで演説会があります。」
「...食事会は十分遅れようか。」
「分かりました。」
「......なかなか様になってきたじゃないか。」
彼は言う。
視界の隅、バックミラー越しに表情が窺える。満足気だった。気分良さ気に外を眺める。
「私の目に間違いは無かった。そうだろう?」
それが俺に向けられているものだと自覚する。
「どうでしょうか。」
「ふふ...お前はそれで良い。」
相変わらず外を眺めたまま、彼は笑う。
四年が経った。
あれから四年、俺は田所健二の私設秘書として今まで働いている。その後の学校生活はごく一般的だった。特別な事なく無事終える。在学中含め約一年間、書生として叔父さんや中島さんから仕事の教育を受けた。たかが私設秘書に政策立案の過程やらを教えるのは将来を期待してなのか。
とにかく、高校卒業後は速かった。正直、この仕事は自分の思っていたものよりも何倍も厳しい物であると思う。体力的にもそうだし、精神的にも辛い事が幾度となくある。誰が好き好んでこんな仕事をするのかと考える事さえあった。それでも、誰もこの仕事を辞めない。そして全員、仕事のスピードも質もあった。それに驚愕した。
何故だろうか。何故こんなにも有能な人達が集まるのだろう。その答えを以前、中島さんから聞いたことがある。俺以外の人は全員、田所から直接この仕事の勧誘を受けているらしい。彼が彼らを見出したのだと思うと、やはり人並み以上に力のある政治家なのだと思わせられる。
やはり俺は田所の興味を引いたらしい。人を遠ざけるような、諦観染みたようにも感じる雰囲気も強い目も、彼にとっては興味を引く対象のようだ。それは寧ろマイナスになる物である筈なのに、彼は俺を傍に置いた。そして傍に置く理由が他の人と微妙に異なることを認識している。その理由が何となくわかる。
「豪はどう思う?」
田所は尋ねる。
「目を離すには早すぎると思います。」
「相変わらず厳しいな。お前は。」
相変わらず、満足そうな笑みを浮かべていた。
食事会の会場に到着する。
既に席には会長の姿が見える。田所はそこへ悠々と向かう。
「どうも、お久しぶりです。」
ぎらついた笑みを浮かべて握手を交わす。覇気を感じた。
会長もそれを知覚しているのだろうか。負けじと張り合うも、どこか虚勢のように見える。
食事会自体は大したことがなかった。世間話やらをしながら時々、あれこれと金の話が出たり、次の選挙の話が出たりという感じだったが、やはり田所が優位に見えるのは気のせいだろうか。
「そろそろ時間です。」
小さく耳打ちすると、出されたランチを半分も食べきらずに立ち上がる。
「会長、申し訳ない。次の予定があるので今日はこれで失礼します。」
「あ、ああ。」
「都合がついたら是非またご一緒しましょう。では、」
軽く会釈をして、まだ食事中の会長を残し田所は次の予定に移る為車に向かう。
ふと、視線を感じた。
「何故だ。」
会長だった。彼もまた同じだった。
「何故お前はあいつの下に居る。」
「......失礼します。」
「何かあったか?」
田所に尋ねられる。
「申し訳ありません。少しトイレに。」
「...んん。そうか、もう行くぞ。」
少し唸った後、そう言うだけだった。
次の予定地に向かう為、車を出す。厚生省まではここから丁度十分程度なので道路状況さえ良ければ時間内に到着できる。
到着したのは十二時三十二分。この二分が後に響かなければ良いがと多少心配になりながら車を付ける。既に外で待っていた重役達に迎えられ、屋内へ向かう。
どうやら昼休み中のようだった。席についている人数は少ないし、中には昼食を摂っている者もいた。まさか聞かされていない訳は無いのだろうが、どうだろうか。後で叔父さんに聞いてみようと、浮かんだ疑問を頭の隅に置いておく。
田所と叔父さんは重役たちに連れられ会議室に入る。
「煉、来るか?」
相変わらず何も聞かされないまま出席を促される。
田所の問いに答えたのは叔父さんだった。
「まだ速いと思います。」
「いい経験じゃないか。」
「一昨日も同じような事を聞きました。」
「むぅ...。」
風格の割に子供っぽいところも見せる。今でも時々良くわからない人だと思う。
結局、待機するよう叔父さんから言われ外で待つ。外と言っても他の官僚たちにとっては職場である為、居心地が悪いので廊下に退避する。
どれくらいかかるだろうか。およそ一時間程度だろうと推測し、次の予定の演説会の会場の状況などを確認、把握しておくが、一時間を潰すには足りなすぎた。外に出ようと廊下を歩く。
「―――――――。」
「―――――――。」
見知った顔だった。
......フフッ。
どうだろう。顔に出ていたかもしれない。
少し驚いたふうに見せた後、俺とは正反に、彼の顔はまた歪む。
「なんでお前が、」
「何故だろうな?」
少し挑発気味になってしまったかもしれない。自制できるだろうか。
山ケ野の前に立つ。
「言っただろう。」
「......は?」
「いいところまで行く。と、」
怒りが肥大化するのが解る。その中に、他に何かがあった気がする。
山ケ野は嘲笑した。
「はッ...うるせーよ。お前には関係ない。」
「......お前は、...何でここにいるんだよ。」
言いかけた問いだった。
フフッ...
思わず零れる。
「田所健二の秘書をしている。」
「...は?意味が解らない。」
「フフッ...何が?」
「......もういい。」
山ケ野はその場を立ち去ろうとする。
「酪農家は、」
彼は立ち止る。
「酪農家は――、豚や牛を人と同じように愛するのだろうか。」
「......おい。」
狭山の襟首を掴む。そのまま壁に追いやる。
何だこいつは。何なんだ。何故こうも俺の前に現れる。何故こいつは俺をこんなにも苛立たせる。何故俺は...ッ―――。
何故こいつを信じたのだ。
じゃああれは一体―――。
感情の整理がつかない。
「...クククッ」
楽しそう。いや、楽しんでいた。彼は笑う。
それはどす黒い、狂気の笑みだった。
―――いかれてる。
そう悟った。
こいつはおかしいのだ。そう理解しても尚、怒りは湧いて出る。
「てめえは...今何言ったか解ってんのか?」
「唯、疑問を口にしただけだが?」
狭山の顔は今もまだ変わらない。
「ふざけんッ......!」
何。
何だ。何かが、視界の端に
...居た?
気のせい?何...
「ふうん。...お前には何が見える?」
どす黒い笑みの中に試すようなものが加わる。そのせいか、先程より壊れた印象は受けない。
「......話そらすんじゃねーよ。糞が。」
「フフッ......まあいい。」
「よくねッ...」
瞬間、鳩尾に衝撃が走る。
「がっ......!!」
思わず、後ずさる。
狭山は服を正す。
「ふう。...ッフフ、まだ仕事が残っている。」
そう言い残し狭山は去る。
クソッ......!!
怒りもあった。悔しさもあった。ただ、一つだけ言えるのは
俺はこの感情を忘れない。
そう誓った。
山ケ野竜也はごく普通の家庭に生まれた。
父親はサラリーマン、母は専業主婦のありふれた家庭だ。彼は両親からそれなりの愛情を注がれていたと自覚している。一人っ子で少し甘やかされもしたかもしれないが、その愛に溺れてしまうことは無かった。それは彼の気質がそうさせたのかもしれない。
小学生になると、彼はたくさんの友達を作った。誰とでも良く遊び、慣れ親しんだ。他より小さかったけど、ケンカも強かった。彼がいれば理不尽なんて起きなかった。彼がそれを許さなかったし、何よりみんなの事が好きだったから。みんなの良さを知っていたから。
彼はみんなの為に生きていた。
中学に入ると、彼はいじめにあった。
理不尽だった。
圧倒的な力だった。
理解できなかった。
何故だろう―――。
彼はその頃、他より少し童顔で背も小さかったからかもしれない。或いは、彼の人気に嫉妬してかもしれない。
次第に、みんなは彼から離れた。簡単な事だ。自分が虐められたくないから。分かっていた。
だからみんなの事も許せた。
仕方がない。これでいい。
最良の選択だ。
自分一人で収まりがつくなら別に構わないと思っていた。
彼は今でも本気でそう思っている。
でも彼は諦めない。必死で抗った。
ただ―――。
つらかった。一人であることがこんなにも辛いものかと思った。
いつまで続くのだろうか。
ただ、怖かった。
会議している部屋の外の廊下で待っていると、田所と叔父さんが出てきたようだ。
何やら話をしている。
「待たせたね。」
廊下に出ると田所から声をかけられる。
「いえ。」
「ずっとここにいたのか?」
「少し辺りを回らせてもらいました。」
後ろの数人は些か怪訝そうな顔を浮かべる。
「んん。そうか。」
意図してそうしたわけでは無いのだが、満足そうにしている為良しとする。
「勝手に動くな。」
叔父さんの方は官僚の思惑を代弁した形となった。
「はい。」
叔父さんの目を見る。
私設秘書として働き始めてからは、家での印象もだいぶ変わったように思う。
以前ほど優しい雰囲気では無くなったと思う。でも俺にはそのくらいが丁度良かった。
「次は演説会だったかな?」
田所は歩き出す。
「はい。内容についてはこちらに。」
演説会の資料を手渡す。
「んん。少し余裕があるね。」
「三時から入場可能ですが。」
「んー、いや。実は君に紹介したい人がいてね。」
「...わかりました。」
わざわざ自分に合わせる相手――。見当もつかなかった。しかし聞いても答えるはずがない事も知っていた為、返事だけ返す。
「君達はここまででいいよ。」
官僚達に向け告げる。
「いや、しかし...」
その中の一人が下手に挑むが、
「いいと言っている。」
それだけ告げると何事もなかったかのように歩く。
「お、お疲れ様でした。」
彼らはそれきりついてくることは無かった。
「そう心配しなくてもいい。お堅い相手じゃない。」
「...はい。」
ますます想像がつかない。そのまま指定された場所に車を走らせる。
田所はその人物と連絡を取っているのだろう。後ろで会話が聞こえた。しかし今から会いに行く事、そしてそれを相手が了承したことくらいしか読み取れなかった。
目的の場所に到着する。
今日は何かイベントでもあったのだろうか。小学生くらいの子供達がわいわいと走り回っている。
その中に一人、男がいた。彼は少女に微笑み頭を撫でる。とても幸せそうだった。錬達を見つけると少女と別れ、こちらに近づいた。
「今日は研究室に籠っていないんだね。」
田所は男に話しかける。
「ええ。電話を貰ってからは外で待っていましたよ。彼らが楽しそうに遊んでいるものでしたから、つい。」
また会うことになるとは―――。
俺には見覚えがあった。
―――何故、俺は覚えていたのだろう。
一日に二度も知人に会うことになるとは珍しい。
田所が指定した行先きは大学だった。
家の近く。そう、彼が通っている大学だ。
「煉。彼はダニエル・ショシャン。魔法学の研究をしている学生だよ。」
ショシャンは俺を見つけると目を見開く。
「...君は、あの時の......!!」
彼もまた、自分の事を覚えていた。
「ん?知り合いかい?」
少し驚いたように田所は尋ねる。
「以前一度会ったことがあります。」
「あの時はありがとう。おかげでとても助かったよ。」
ショシャンは握手を求める。
すっかり慣れた日ノ本語は以前と比べてとても聞きやすかった。
「いえ。大したことでは。...ああ、狭山煉です。」
「ああ、よろしく。」
挨拶を終えると、いくらか会話を交わす。
ショシャンが田所と知り合ったのは数年前、近くの喫茶店らしい。何故そんなところでと思ったのだが、とにかくそこで田所と会い、会話を交わすと、田所はショシャンの研究に興味を持ったらしく熱心に話を聞いてくれたようだ。以来定期的に会っているらしい。
ショシャンが研究しているのは一次変換魔法学だったから、田所はそこに何か見出したのかもしれない。
「そうだ、ダニエル。錬にも例の論文を見せてやってくれないか?」
「ああ...あれですか。しかし......。」
ショシャンはためらいを見せる。
「彼なら大丈夫だ。私が保証しよう。」
「...分かりました。田所さんがそういうのであれば。」
田所の言葉に彼は頷く。
「煉、今何時だ?」
「三時八分です。」
「んん、そうか。もう少ししたら出ようか。」
「分かりました。」
「すぐ取りに行きます。少し待っていて下さい。」
ショシャンは慌てて屋内に向かう。
「まさか知り合いだとは思っていなかったよ。いつ頃出会ったんだ?」
「四年程前に、一度。」
「四年か、良く覚えていたね。」
「...ええ。」
「お待たせしました。これなんだけど...暇があったら、読んでもらえないかな?」
ショシャンから例の論文を渡される。
「分かりました。」
「じゃあ、田所さん、煉、また会えるのを楽しみにしているよ。」
彼は笑顔で手を挙げる。
軽く一礼すると、車に引き返す。
「遅かったですね。」
車に戻ると叔父さんから一言。
「世間話が過ぎてね。四時には到着していたいんだが。」
「分かりました。煉、大丈夫だな?」
「問題ありません。」
そう答えて次の目的地に車を走らせる。
会場には既に多くの人がいるようだった。
裏口から中に入ると手筈通りに事を進める。
「田所さんはこちらで待機していてください。」
「んん。」
「十分後に事前説明、注意事項等の確認が再度入りますので留意してください。」
「んん。」
再び同じ返答が帰ってくる。
田所を個室に案内すると会場スタッフに再度進行の流れを説明する。
「では、よろしくお願いします。」
せわしなく動き回ると開始まであと十分近くになる。
「失礼します。」
「入れ。」
返事をしたのは叔父さんだった。
「開始まであと十分です。お願いします。」
「田所さん。」
叔父さんが促す。
「...んん、行くか。」
演説会が始まると自分も叔父さんも舞台袖にて待機する。随時進行予定と現在の進行状況を把握しておく。
演説会には田所の他に何人も名だたる議員達が席を並べる。彼らにも予定があるため一切の遅れは許されない。
「日ノ本のエネルギーのほとんどが...」
舞台袖からも田所の声が聞こえる。
「煉。」
ふと、叔父さんから声がかかる。
「どんな様子だ。」
「今のところ遅れはありません。」
「そうか。」
「開始直前の連絡だが。」
「はい。」
「一分弱遅い。もっと早く動け。」
「...分かりました。」
自分はまだ甘いようだ。
しかしそれくらい精密に動かなければならなければならないのがこの仕事なのだと知っている。
演説会も無事終わると、裏では田所の所に挨拶に来る議員が現れる。
開始前にもそういった光景は見られたし、議員からもやはり一目置かれているのが解る。
「またよろしく頼むよ。」
田所はその挨拶に適当に区切りをつけると歩き出す。
それを聞くと、車へ案内する。
「長かったねぇ、意外と。」
「お疲れ様でした。」
叔父さんは田所に一礼する。
「帰ろうか。」
車に乗り込むと、外を眺めて退屈そうにも見える顔で告げた。
田所を家に送ると、八時半頃になっていた。
一度事務所に戻り、そこから自宅に着くともう九時近くになる。
玄関をくぐると一息。
明日も八時には家を出ることになるのだ。身体的な疲労が重なる。休日が恋しい。
部屋に戻ると少女と二人。
四年前と接し方もさほど変わった訳ではない。暇さえあればいつでも考えている。
同じように、ベッドに寝転がる。
何故、また会ったのだろう。
何故、俺は覚えていたのだろう。
神はいったい何がしたいのだろうか。
そんな事を考えて、いつの間にか眠りについた。
眠りにつくと彼女は一人。
胸を高鳴らせる。
どこか狂ってしまっているかもしれない。
判らない。
唯―――。
数か月が経った。
ある日の休日、
「今月で行方不明者は八人となり、その全てが...」
そんなニュースを眺める。
この国も物騒になったものだなと頭の隅で思いつつ、テレビを消す。
叔父さんは今日も仕事らしい。何でも、やらなければならない仕事があるようで一人、事務所に向かった。
相変わらず休日を有意義に過ごす手段が浮かばないのだが、働いているせいか、今はそれでもいいかなという気がしている。
そんなことを思いながらリビングのソファに体を預けていると携帯が鳴る。
叔父さんだろうか。
そんな疑念を抱きながらも携帯を手に取る。
「もしもし。」
「やあ、煉。良い休日を過ごしているかな?」
連絡してきたのはショシャンだった。
田所から紹介されて以来、ショシャンとは頻繁に連絡を取っている。
どういう意図で自分なんかと一緒にいたがるのか理解できなかったが、純粋に楽しんでいるのかもしれない。最近はそう思えてきた。
「今日は休みって田所さんから聞いたんだけど。良かったらランチでもどうだい?」
「...ああ、問題ないよ。大学にいるのか?」
「そうだけど、来るのかい?」
「まあ、近いし。」
「そっか。近くにおいしいお店を見つけたんだ。そこへ行こう。」
「分かったよ。一二時頃そっちに行くから。」
「分かった。待っているよ。」
返事を聞くと電話を切る。
またおいしいお店を見つけたらしい。あちこち探しまわっているようだ。四年以上ここに住んでいるのにまだ見つけるのかと驚かされる。恐らく自分なんかよりもずっとここら辺の事に詳しいのだろう。
約束された時間に研究室の扉を開けるとショシャンがいた。相変わらず研究に熱中している模様だ。乱雑に置かれた資料の中に人影が見える。
「ショシャン。」
「ちょっと待って。もうすぐ終わるから。」
パソコンにカタカタと文字を羅列していく。
相変わらずの集中力だと思う。
「んん、良し。行こうか。」
数分の後、そういって勢いよく立ち上がる。
「ここだよ。カレーがすごくおいしいんだ。」
「へえ。」
大学から一〇分程歩くと階段の前で立ち止まる。
判りにくい場所だと思う。良く言えば隠れ家的、とでもいうのだろうか。
「こっちだよ。」
ショシャンに案内され階段を登る。
店内は洒落た印象を受ける。
席に着くとショシャンと同じカレーを注文する。
「...煉、あの論文なんだけど、」
しばらく他愛のない会話をしていると、またその話題を切り出す。
「まだ読んでない。」
「そうか。ならいいんだけど...。」
ショシャンはあまり読んでほしくないのだろう。そんな印象を受ける。
今までにも数回聞かれていた。
「...どうしたんだ?」
いつもは流していたのに、今日は違った。
「んー.........。いや、余り期待はしないでというか、違う。......んー。」
何か言いたいようだった。
反応から何となくは推察することができる。
「何が書いてあるかは知らない。でもまあ、別に何も変わらないと思う。」
「...んん。ありがとう。」
再び、他愛のない会話に戻る。
昼食を終え、ショシャンと別れると再び自宅に戻る。
自分の部屋に入ると机の上に置いたままの論文が目に入る。
今は読む気分にはなれなかった。
手を伸ばせば届くのに。
最近何故だか少女は機嫌が良いように見える。
俺はそれにどこか恐怖していた。
「台風16号は今日...」
テレビを眺める。
そうは言うものの、外を見れば雨の降る様子は無い。
ショシャンと会ってから一週間が経過した。
普段通り朝から晩まで働き詰めだ。
疲労感を感じながらデスクに座る。
「煉くーん?就業時間まであと10分よ。頑張って。」
後ろから声がかかる。事務の江間さんだった。
目線こそ目の前のパソコンに向かっているが微笑みながら注意を促す。
「ああ...すいません。」
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。すいません。」
再び仕事に集中する。
「ふふふ。錬くんそれしか言わない。」
「......すいません。」
「もっと気を楽にしてもいいのよ?」
「...はい。」
「錬くん。」
「はい。」
「...今度ご飯食べにいこっか?私奢るよ?」
唐突だった。
「あー...。いつですか?」
「んー...。来週の休日なんかどう?」
「じゃあ、」
終業時刻を告げるベルが鳴る。
「......すいません。また今度で良いですか?」
「うん。待ってる。」
そういって彼女は微笑んだ。
帰り道、自宅まで徒歩で帰宅する。
わざわざ車に乗るほどの距離でもない為、叔父さんが一緒でないときは大体歩いて帰っていた。
まだ明るい帰り道を歩いているとショシャンを見かける。
大学とは反対の方向へ向かう。
気にしなければいいのに、気になってしまった。
何処へ行くのだろうか。
罪悪感を覚えながらも彼の後ろに続いた。
古いアパートだった。今ではもう誰にも使われていないのではないだろうか。そんな風に見える。
こんな処に住んでいるのだろうか。
いや―――。
不信感。
妙なざわつき。
違う、何か。
行かない方がいい気はしていた。
それなのに足を運ぶ。
彼は慣れた様子で部屋に入る。
鍵は―――。かけていない。
多分最初からかかってすらいなかった。
彼が部屋に入って数分。
どうしようか。
入らない方がいい。
でも。
好奇心だけならこんな事はしていない。
そこまで他人に対して興味は無いのだから。
ドアノブに手がかからない。
何故だ。
こんな時に彼女はいない。
無意味。
すがろうとする自分に嫌気が刺す。
勝手な都合だと嘲笑する。
手をかける。
何か捨てた気がした。
捨てるだけの何かだったろうか―――。
部屋に入る。
ああ。
その中の一室だった。
「何故だ。」
目の前の男に問う。
「なんだい?」
狂気に満ちた目が俺を見つめる。
「何故壊れる。」
「壊れてなんてないよ。私は何も間違ってはいない。」
肉塊となった少女の片腕を愛おしそうに撫でる。
彼女は悲しそうな顔をしている。
何故そんな顔をするのか。怒りさえ覚えた。
しかし今はそんなのどうでも良い。
「お前は、壊れている。」
再び告げる。
「くっふふふふふ。」
彼は笑った。
とても楽しそうに、笑った。
「違うよ!!何をやってもいいんだ。そういう世の中なんだ。何故分からない!!」
「ああ。否定しない。」
「ふふふっ。そうかい。じゃあ君は何が間違っているというんだい。」
余裕めいた笑みを浮かべて問う。
「お前は殺した。そして理解していない。」
「そういう世の中じゃあないか。殺してはいけないのなら何故殺せる?一体何を理解していないというんだい?」
「可能性を奪った。それは罪だ。」
「...では何故殺せる?何故私は殺すことができる?」
「殺すことも許されているからだ。」
「ふふ。意味が解らないよ。全く、理論的でない。」
「可能性を奪う事がどれだけ大罪であるか理解していない。...お前は逃げている。」
「逃げて......いる...?」
彼に動揺が走るのが解る。
「私が逃げている?ふふふ。まさか。そんな筈がない。私は正しい事をしている。」
「お前は罪の重さから逃げている。」
「違う。違う!違う!違う!違う!違う!!私は正しい!!正しいんだ!!」
「お前は間違っている。」
「嘘だ!!そんな筈がない。だって、そんな...!!」
刀を取り出す。黒い、影のように形を待たない靄だった。
一歩、また一歩、彼に近づく。
「何...何だ!?止めろ!!近づくなっ!!」
傍にあった血まみれのナイフを突き出す。
「何故怯える。」
突き出したナイフを切り払う。
ぼとり
「くうぅぅぅぅああああああああああ............ッッッ」
痛みは感じていないだろう。それでも、腕を切り取られた衝撃に彼は呻いた。
壁際、彼の胸ぐらを掴む。
「何?何だ!!何をする!?」
「お前を殺す。」
「嘘だ...!!そんなのおかしい!!殺すことは罪なんじゃないのか!!」
「ああ。許されざる大罪だ。」
「――――――――。」
彼は絶望した。
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!神よ!!神よッッ!!!!どうかッ...!!」
刀身は既に、咽喉元に触れるか否かのところまで来ていた。
「何故だ......何故なんだ...ッ!!」
「......フフッ」
思わず笑う。彼と同じ、狂気の笑みだ。
危ない。本当に危ないところだ。そう思う。
こいつじゃない。これはこいつに言いたい言葉じゃない。
「何故死ぬのか。そう聞いているのなら、」
「お前が弱いからだ。」
「よわ......い...」
「くっふっふっふっふっふっふっふ......」
「フフフ...クッフッフフッフッフッフッフッフッアーハッハッハハッハッハッハッハ」
「ッハッハッハッハッハッハハハハハハッハッハハハアハハハハハッッハハッハッハハッハッハッハッハハハッハッハハハッハッアハッハッハハッハハアッハハッハハハハッハハアハハハハハッハハアハハハハハハハアハアッハハアッハハアハハハハハハハハハハハッハハハハハハッハッハハハハハハハハッッハハッハッハハッハッハッハッハハハッハッハハハッハッアハッハッハハッハハアッハアハハハハハハハアハアッハハアハハハハハハハアッ」
「ああ゛ア゛ア゛あア゛アあ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ......!!!!!」
憎しみだった。一片の曇りのない憎悪の声が空気を震わせた。
外は暗い。あるはずの太陽がそこにいない。
傘を差し、そのまま家路につく。
「グッ.........はッ......」
嘔吐感。慌てて路地裏に隠れる。
盛大に吐き出す。立っていられない。
「ああ゛ア゛ア゛あア゛アあ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ......!!!!!」
彼の目が、声が。脳に焼き付いている。
解る。体が言っている。お前は大罪を犯したのだと。
簡単な事だ。警察に言えばそれで良かった。彼はそれなりの罰を受けることになる。
出来なかった。考えてしまう。止められない。
殺された少女たちはどうなる。残された遺族は。理不尽な死。悲しみ。絶望。憤り。
では彼は死ぬべきだったのか。
死を持って購うべきだったのか。判らない。それでどうなる。変わらない。何も。
分かっていたのに。
怒り。憤怒。憎悪。嫌悪。怨恨。欝憤。憤懣。辛辣。遺恨。怨嗟。憤懣。軽蔑。蔑視。侮辱。嘲り。侮蔑。
足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。
足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。
「.........俺はッ...!!.........俺はッ!!......。」
少し後ろに佇む彼女は、どこか悲しそうにそれを眺めた。